とりとめない文章

気になった作品の感想を保管しています。他のとりとめないことを書いたりもします。

とりとめない文章群

水槽のように列車の中には水が満たされています。車窓は額縁です。車内の顔は固定されています。我々は真顔でいなければなりません。笑顔は許されず、ただただ絶望に満たされた表情で運ばれていなければなりません。人々は、落ち込んでいる人には疑問を抱きません。何故か、喜ぶ人ばかりを訝るのです。

 

やはり日本文学(文学に限らずコンテンツ全体)の味は病的な執着だ、もしくはそれが生み出す繊細さ

 

後悔は信念に対しては無力で、だからこそ、そこに信念のニーズがあるんだけど、信念はつまりヒトの後悔したくないという弱い感情を覆っているだけでしかないのかもしれない

 

全てがケースバイケースでしかないのに、馬鹿は定理や真理でもあるかのように根拠の無い格言を唱えるんだ、同じ根拠がない念仏ならばまだ信念や誠意のほうが幾分かマシなのに

 

『恋愛の2パターン

相手とのコミュニケーションの中で自分の中に小さな相手を仮想的に作り上げ、そいつを可愛がる、1つ目の手法

相手とのコミュニケーションでそれぞれ互いの内に相手そのものではない、何かを積み上げていき、その積み上げられたピラミッドが、ある種の自分自身のそれとは違う確かな存在証明として輝く
その相互付与的な関係の一番頂点で肉体の二人が踊っていて、精神のほうがその積み上げられたものを享受する、2つ目の手法

自分のことは多弁になってしまうな』

 

『頭痛と心のしこり

頭痛と心のしこりは似ていて、それが漠然とどこかに存在しているのが分かるとああいやだなあと思ったり、強くそれに支配されると暴風雨に曝されているように感じたりします。両者を比較するとどうしても心の方が辛く感じられますが、それはおそらく、心と対比して辛さを感じる頭の方が健全であるからでしょう。頭が痛みに支配されているとき、心は頭に干渉する手段を持ちませんが、心が痛みに支配されるときは、私達はどうしてもそれを頭を通してしか観測できないので、頭のほうで、心に対して苛立ちだったり哀れみといった余計な感情を抱いてしまうのです。両者は切っても離れぬ関係ですが、平時はまるで互いを存ぜぬように振る舞うのが何ともいじらしいですね。』

 

『dear the words on the earl grey (アールグレイの水面に浮かぶ言葉たちへ)生活感なんて言葉遠い対岸のようせっかくもらった言葉も水面を貫通し沈んでゆくマドラーでかき混ぜ、浮かび上がらせることはできても浸ってゆく 浸ってゆく 言葉たちへ』

 

『【歌詞】起き上がりこぼしの熱狂

奇妙な熱がまだ残ってる
心地良いような
じりじりと乾かせてゆくような
何かが焦げている 干からびたウイスキーボトル 崩れた

満月の昂ぶる夜に
冷静は何処に潜む
溶けない氷をポケットへ 
申し訳程度に
マドラーでかき混ぜ ジャキジャキと


溢れる飛沫 水溜まり 反射する街頭の光

熱狂、ああ熱狂よ
お前は只の幻想だ
お前の見せる陽炎
それが夢を形作って
全身を支配する 駆り立てる
錯覚かな 世界を打ち鳴らすことができるなんてさ


うだる熱がうずいている
渦巻くように
薪もなく焚かれた火があって
見過ごせなくなった 誰かが滔々と くべる くべる くべる

飛び散る火の粉 灰となり 去りゆく後は 風に聞く噂


熱狂、そして情熱よ
お前が咲かせる花
その真っ赤な花が
すべて狂わせている
踵に咲くのは花 情熱の花
明日がどっちかもわからないのに

遠くの遠くの先まで 見通せるか?
起き上がりこぼしの熱狂だけが立つ
進んでみたら崖っぷちだったって
腐るほどそんな話ばっかさ
あぁ、熱狂よ
陽炎、情熱
あぁ、熱狂よ
陽炎、情熱よ』

 

『シャボン玉の質量

 僕らはシャボン玉や風船が膨らんで割れることに必要以上に意味を付属させます。例えば膨らんだ思いが前触れなく割れてしまうというようなことに。しかし実際に問題なのは、割れたあと、そのシャボン玉に含まれていた中身が外界の、例えば空気と同化してしまうことであるはずです。シャボン玉や風船などはただの器でしかないのです。そこに入った思いが強固であれば、また色濃くあればあるほど、きっと外界と混ざり合っても行方不明にはならないはずでしょう。まあ本当のことを言ってしまえば、空気という大海は無限大なので、その思いもいつかは完全に呑まれてしまうのかもしれませんが。しかし、僕は、強固な思いのその強固さを、浪漫を、諦められないのです。そう願っているのです。シャボン玉が割れないことに越したことはないですが、しかしやはり割れたところで気しないというような、そんな思いの在り方ができたらいいなと、僕はやはり思いを膨らませ続けるのです。届けよ、届けよと。

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全てが終わったら、そのあとに。

 

人の好意の持ち方について完全版

本質的に自分を嫌う、もしくは好意を持たないであろう人間に対し、好意を持ち、その好意でもって友好関係を築くやり方がある。つまり、「こいつは自分のことを本質的には好きではないだろうけれど、自分がこいつに好意を与えることによって、仲良くなれるだろう」というやり方である。これは不健全である。幸福になれない好意の持ち方である。

 

健全な好意とは、自分に健全な好意を抱いてくれる人間に対して抱く好意である。

 

自分に好意を抱いてくれる人に駄目なところを見せて、受け入れてもらうのが、健全な関係だ。幸せな関係だ。

 

自分に好意を持たないであろう人間に、駄目なところを見せて、それを拒まれ、それでも、と、今のは無し、と好意で上書きするのは不健全な関係だ。幸せになれない関係だ。

 

恋人関係でこれをする者もいるが、友人関係でもこれをする者もいるので、よく注意するように。