とりとめない文章

気になった作品の感想を保管しています。他のとりとめないことを書いたりもします。

三秋縋の『三日間の幸福』を読んだ。

2019年8月24日 記

 

自分でも信じられない話なのだが、自殺しようとしているまさにその時期にこんな物語を読んでしまうのだから、自分でもその嗅覚を褒め称えたくなる。

 

こんなにも文章の節々が重たい小説に出会ったのははじめてだと思う。僕は二十数年生きてきて、未だ人々が言う「この作品はまさに自分のことを書いているのではないか」と思うほど革命を受けるような小説や音楽に出会った経験がなかった。しかしようやく出会えた、それがこれなんだと思う。

 

『三日間の幸福』を知っている人からすれば、この作品がこれから死のうとする人間にどれだけ刺さるのかということは言わずとも分かることだろう。

 

『三日間の幸福』全てを読み終えたときのタイトルのこの重みがどれほどのものであるか。僕はと言えば自殺しようと思い自らの首に包丁を向けつつもそこを裂くことができなかったあの日から、丁度今日で3日目である。毎日毎日ホテルで目を覚ます度に延長戦だと呟き、生きているのかも死んでいるのかも分からない宙ぶらりんになったようなゾンビのような思いでまた夜には自らに刃を向ける日々である。何とも滑稽な話だ。

 

そんな冗長な話はどうでもよい。僕は今から本当に自分の思いを正確に書き写すことをしてみたいと思う。

 

『三日間の幸福』を読んで、自分の思いを代弁してくれる作品というものに初めて出会った。本当に初めての経験だった。なんとなく自分の感じるような現実に対するモヤモヤを似たような形で、描写してくれる作品はあった。ただ、それは完全ではなかった。僕のわだかまりが円であるとしたら、今まで出会った作品は、フリーハンドで書いた円のようなシンクロ具合しかなかった。『三日間の幸福』は僕の円と正確に合わさる円をコンパスで書く以上に正確なそれを描いてくれた。だから僕は死ななくてもいいのかもしれないと少しだけ思った。でも、生きていなくてもいいとも思った。なんとなく、この先の人生、もし仮に生きたとしても文章や音楽を創作しようと思うことがないかもしれないとふと思った。なんだか、これまでの人生全てが一度清算されたような、強く腑に落ちるような感情があったのだ。確かに社会には現実には苦痛を与えてくる、どうしても納得できないこともある。ただ、それに対するドス黒い感情がなくなってしまったように感じている。どうでもよくなっているのだ。人生の成功も、恋愛も、友情関係も、家族も、お金も、生も死も、全てがかつての執着を失い、どうでもよくなってしまった。

これらは全て嘘かもしれない。一時的なものかもしれない。旅の疲れ、死を思うことの疲れからの逃避かもしれない。ただ、こんな感覚はおそらく今まで一度さえ経験したことのないものだと思う。だから、そう、僕は戸惑っている。本当に死んでも生きてもどちらでもいいと思っているのだ。やはり今夜も包丁を自分に向けるのかもしれない。それは今度こそ成功するかもしれないし、僕のこの清算された思いとは別のところから生物の根源的な恐怖が湧いてきて、それはまた失敗するかもしれない。まだ金は尽きていないから、また別のホテルを周り、そんなことを繰り返すのかもしれない。あるいは別の死に方を模索するのかもしれない。あるいはやはり死ねないと思って、家に帰るのかもしれない。今回の一件で迷惑をかけた全ての人物のところを渡り歩き、それでも許してもらえたらかつてと同じ生活をするかもしれないし、全て辞めて違う生活スタイルを1からやり直すかもしれない。死ぬかもしれない、生きるかもしれない。

どれでもいいと、思う。本当に心の底からそう思う。もしかしたらこの感覚は、頭が働いていないせいかもしれない。もしまた活力が沸いてきたら、かつてのような様々な感情が巡ってくるのかもしれない。それはすこしだけ嫌だが、それもまた愉快なことなのかもしれない。

 

とりあえず僕はもう少しだけ旅を続けたいと思う。幸か不幸か、残された金銭はもうあまり多くはない。だからこの状況は長くは続かないだろう。まだどうなるかは分からないから、交友関係にある全ての人に連絡を取ることはしない。誰にも連絡をとらないし、この投稿も予約投稿に留めておくだけでリアルタイムでの公開はしない。それだけは不義理だと思うから、申し訳ない。けれども、少しだけ、あと少しだけこのままでいさせてくれないか。心配させているのは分かっている。ただとにかくすこしだけ、一人にさせてほしい。

 

最後に、この文章が全く微塵も『三日間の幸福』のレビューになっていないことに気が付いた。ただ、僕の二十数年の人生を完全にひっくり返す物語であったことだけは最後に伝えておきたい。