とりとめない文章

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どうして人は表現に魅力されるのか。表現とは何か

2019年8月24日 記

 

なんとなくその答えが分かったような気がした。

 

それは当たり前のことだった。例えばひとりの表現者がいて、彼が絵空事や夢見話を歌う。それは現実的なことではない。けれども彼はそれを信じている、願っている。そのひたむきさに、人は魅力されるのだ。彼に共感する人々は、それを信じていいんだと、願うことが許されたように感じるのだ。例えば世界の些細な美しさを歌う者。例えば世界の厳しさを歌う者。こんな世の中、生きているなんてくだらないと歌う物語があっても、それでも彼が生きていることがメッセージになる。それでも彼は生きているんだと、ちっぽけな世界でも、絶望しながらでも生きる価値があるのだと、そう言う彼に人々は魅力される。あるいはこんな世の中だから死んでしまおうと言う人がいて、それでも人々は彼の歌う「死の美しさ」にさえ魅力される。実際に自殺した表現者がいれば、人々はより、死というものに、死んだ彼に魅了されるだろう。

 

それが表現するということなのだ。人々を動かすということ、人々の心を動かすということ、人々を救済するということ、なのだ。

 

そして人を魅了することによって、表現者である彼も己を肯定することができるのだ。自分の信じる世界に付いてきてくれる人間がいるのだと安心する。それがまた、彼の信じる世界の、彼の生み出す世界の活力になる。あるいは人を魅了できなくとも、彼はおそらく、人々に理解されない高尚なことを歌う自分に価値を見出し、自分を肯定することができるのだろう。表現するとは、そういうことなのだ。自分の写し鏡を、「人」とは違う形で生み出すこと。それが表現なのだ。だからそれは半端であってはいけない。自分に嘘をついてはいけない。自分の信じる世界を、自分に見える世界を、つまり自分自身を、言葉として、何かとして形にする。信じること、願うこと。自分という物体から、違う媒体として自分を生み出す。願いを、信念を、世界を形にすること。それが表現なのだ。

 

だから表現することは、きっと端的に言えば、コミュニケーション手段でしかない。健全な人間は、人との交流の中で、自らの言葉で自分を表して、表明して、人と繋がる。彼の言葉が誰かに肯定されて、交流して、そして彼は安心する、満足する。彼は生きていて、自分の言葉で誰かと話をして、それが受け入れられて、例えばかけがえのない友人ができたり、心を許せる恋人ができたり、ありのままを愛してくれる家族ができたりする。そうして彼の世界は肯定される。それは、表現者がまわりくどくやっていることを、最短距離でやっているだけなのだ。つまり、そのやり方で、最短距離のやり方で自分の世界が肯定されなかった人々がすることが表現なのだ。学生時代に友人ができなかった、恋人に深く傷付けられた、あるいは傷つけてしまった、家族に受け入れられなかった、誰かに裏切られた、そういった経験が彼等を表現へと誘うのだ。

 

あるいは、ありのままの自分が受け入れられず、仮面で生きることを決意してしまった者。本心の自分の世界が受け入れられず、仮面の世界だけが人々に受け入れられてしまった者。彼らは内側でくすぶり続ける。世界の内側で、仮面の世界だけが受け入れられている様子をただ淡々と眺めていたりする。そういった人々も表現へと誘われるのだろう。

 

だから表現もコミュニケーションも同じ、本当の自分を、自分の世界を誰かに受け入れてほしいという欲求の現れなのだろう。

 

自分の世界にはけれども、誰も入ってくることはできない。それは自分の世界であり、また、誰かの世界ではない。両者が似ていたとしても、そのふたつは交わることがないし、決定的に違う、似たふたつのものであるという事実から逃げることはできない。同じデザイン、同じ質量、同じ材質のコップが2つあっても、両者は交わることができない。

 

そして人々はそれが分かっている。だからだれも自分と似た人々を求めることはあっても、自分と同じ存在を、自分自身を世界の外に求めることは決してない。

 

では何故、それでも自分の世界を、誰かに認めてほしがるのだろう。

 

それはきっと、人々がそれを観測することができる存在だからだ。誰かが自分の世界を見て、何かしらの行動を示してくる。そのプロセスを通じて、人は自分の世界が自分にしか見えないものではなく、きちんと存在しているものだということが、実感をもって分かるのだ。

 

それが何を意味するのか、どうして人は、自分の世界を自分で観測するのみで我慢できず、人に観測してほしがるのだろう。どうして人は自分で観測するのみで、自分の世界の存在に満足することができないのだろう。

 

それは分からない。あるいは、人は自分で自分の世界を観測することはできないのかもしれない。

 

例えば、人は自分自身を描いた小説や歌を作ったとする。そこにはきっと彼の世界がある、人に観測してもらわなくとも、彼の世界は存在する。それはでも、言葉という媒介を通して、自分の世界を生み出したからだ。言葉という媒介そのものが、人に観測される性質を内包している。だからなのかもしれない。

 

誰かに聞かれることのない独り言も、誰にも見られない詩も、人に観測される性質を孕んだ媒介によって、形になる、それ以外によって形になることはない。それは音でも、映像でも同じことだ。今のところ、人に観測される性質を孕まない媒介によって、人が自らの世界を形にすることはできない。

 

では何故そこまでして人々は自分の世界を形にしたがるのか。それは自分の世界が、自分の存在が形あるものだと、きちんと存在しているのだということを自分で信じたいからだ。その行為なくして、人は自分が存在しているということを認められないからだ。人は何もなくては、自分が存在していることが分からないのだ。

 

そして存在は、存在しているという事実を観測してもらいたがる。それは存在に普遍的な性質だ。存在という性質をもった存在が、存在を認めてもらうことを前提としていることは当然だ。そして存在は観測される性質を前提としているから、観測なくしては存在できないのだ。

 

だから人は観察なくしては存在できない。だから人は観察してもらいだかる。だから人は己の世界を表明する。だから人は表現する、交流するのだろう。