とりとめない文章

気になった作品の感想を保管しています。他のとりとめないことを書いたりもします。

最後の夜 予約投稿

 思えば、誰にも助けられることのない人生だった。それでも22年間も生きてこれたのだから、それはむしろ素晴らしいことだと思う。奇跡のような人生だった。

それに加えて、少なくとも自分にとって大切な人が、心から幸せを願える人ができたのだから、これは奇跡に奇跡に重ねたような、それをなんと呼んだらいいのか分からないけれど、良いものだったと思う。

世界というやつは、心の写し鏡だ。そして僕の心はもう、死んでしまった。最後の一滴を捻りだして、もう、何も残っていない。あとはこの肉体という、空っぽの抜け殻を捨ててやるだけだ。少しだけ怖いけれど、それも一瞬だ。造作もない。

最後の夜は、素晴らしかった。8月の終わり。死んだ目でレジ打ちをする中年の深夜のコンビニバイトも、ホテルの屋上で黄昏る外国人も、ほろ酔いで騒ぐ観光客も、街頭も、タクシーも、信号も、交差点も、全てが美しい。世界はこんなにも美しい。

けれども、僕の心はもう、蘇生しない。全てが美しい一方で、全ては平坦で、心は何も答えてくれない。少しだけ自分を慰めてやった。お前はよく頑張ったと、それが自分の言葉でしかないことがどうしようもなく虚しかったけれど、何かが報われたようで視界が少しだけ潤んだ。

もう、流れるほどの涙も残っていないのだな、と思った。それはそうだ、僕はこの期に及んで何も後悔していないし、少しだけ寂しいだけなのだ。それは心をなくしてしまっているからなのかもしれないし、ただ現実を受け止めていないだけかもしれないし、本当のことは何も分からない。

音楽と文章に少しだけ救われたこともあった。世界は優しくないけれど、それでも優しい人が、世界を少しだけ優しく塗り替えてやろうと、一生懸命に何かを残してくれる。それは彼らの自己満足であるが、一方で、その優しさに救われる人も大勢いる。

そういう人になれたらよかったな、と思う。世界は優しくないし、僕が心から安心できることもないのだから、せめて与える側になれたら、それはとても素敵なことのはずだった。

だから僕はつい、最後にそういうことを夢見てしまって、余計なことをした。彼女に傷を負わせてしまったかもしれない。本当に余計なことをした。本当はそんな余計な言葉は必要なかったのだ。ありがとう、とただ一言、それだけ届けていれば、それでよかったはずなんだ。もし彼女がこれを読んでくれているなら、本当に何も気にする必要はないのだということを伝えたい。どうか夏を嫌いにならないで。あなたにとって一番好きな季節のまま、とっておいてほしい。それと、ありがとう。

僕の辛いことも、怨念のような叫びも、きっとどこかにある、誰にも見られたくないけれど、誰かに知ってほしい。そういう願いが、願望が、常にどこかにあるから、つい、それに従ってしまった。つい、言葉にして、どこかに置いてしまった。それは決して良いことではない。見た人の心に影を落とすだけの行為だ。

何を書きたくてこの文章を書いているのか、本当は自分でも分からない。もう、何も書く必要はない気がするし、まだ書き残したことがあるような気もする。一度は書き尽くしたと思っていたのに。この感覚はいつまでも消えない。全てが蛇足なのかもしれない。しかし、蛇足とはなんだろう。もとよりちっぽけで価値があるのかどうかさえ分からない僕だ。だとしたら何も関係ないはずだろう?

本当に書きたいこと。それは、何だろう。きっとそれは言葉では表せないことだ。一言で表せるような気もするし、どれだけ書いても足らないような気がする。だから、それはきっと言葉では表せないことなんだと思う。

答えが、出た、出てしまった。もう、終わりが近付いている。

どんな言葉で締めくくったらいいんだろうな。分からないや。

だから、僕が人生で一番好きだった言葉で締め括ろうと思う。

 

さようなら、ロックンロール。

原稿用紙10枚ぶんの愛

あり得たかもしれない未来についての話。

 

全てを諦めかけた僕だったけれど、何とか勇気を取り戻し、元の生活に戻る。

 

突然の失踪で迷惑をかけた人のもとを回り、とにかく謝り続ける。そうして簡単に許してくれる人もいるだろうし、そうでない人もいるだろう。

 

家庭のほうはどうだろう。きっと劇的な変化はないだろうけど、必死にぶつかった結果、多少やりやすくはなるかもしれない。

 

そういうことをして日々を過ごしながら、また僕は夜にあなたと電話をする。今日はこういうことがあった、誰に謝った、誰が許してくれた、そういうことを話して、あなたは叱責してくれたり、あるいはよかったねと安心する言葉をかけてくれるかもしれない。僕についての恨み口も多少ぶつけてくるだろう。そうして僕は自分のしてしまったことを見つめることができる。反省をして、とりあえず今は生きる目的もないけれど、この人のために生きてみようと、また謝って、好意と償いのために生きようとする。またあなたの側の問題についての話題になって僕はそれでもきっと大丈夫だよと励ますだろう。

 

君はそうした後に僕に会ってくれるだろうか。これは僕の予想なんだけど、君はそう簡単には僕には会ってくれないような気がする。おそらく、君はそういう欲求を持て余しているけれど、それを僕にぶつけて解決することは結局しないんだろうなと思う。きっと一緒にカラオケなんかに行くのが関の山だろう。

 

そうした日常をしばらく送る。そうだな、半月くらいは続くだろう。あるいは1ヶ月、2ヶ月くらいはその繰り返しかもしれない。

 

免許合宿は山場だな、そのときの君は多分、溢れんばかりの自分の感情をコントロールするのに四苦八苦し、環境の変化とか色んなことがあって、とにかく疲弊するもんだから、僕のほうも気張って、なんとか元気にさせようと電話口であくせくするんだろうなと思う。

 

とにかくそうしてしばらく経って、君に大切な相手ができる。今の君には信じられない話かもしれないけれど、それはそうなる。バイト先だとか、サークルだとか、多分その辺りだろう。僕は勿論君に好意を持っているから、それを聞いて少なからず残念に思うだろう。いやでも前からその兆候はあったからそんな気はしてたよ、と笑って、幸せになれよと言うだろう。勿論僕は好意を捨てきれないから、密かに君を思い続ける。付き合って間もない頃というのは往々にして幸せの絶頂にあるもんだから、君はそっちに釘付けになって、僕に構ってくれることも減るだろう。相手に悪いからと多少、距離を置こうとするかもしれない。ああ、と僕は寂しく思って、けれどもあなたが幸せになるのならそれ以上に僕の人生にとって喜ばしいことはないと思って、おそらくそこで絶望することもないし、何かが嫌になるというわけでもないだろう。実は僕は、そういう好意の持ち方に慣れている。相手を傷付けることもないから、いっそそういう好意の方が幸せかもしれないと思うこともあるくらいだ。

 

けれどもその関係もきっと長くは続かない。君には悪いけど、その相手とは君はそんなに上手くやれないと思う。付き合い始めて、早くて1ヶ月、それか3ヶ月くらい経って、何が問題になるかまでは分からないけれど、とにかく2人の間に避けようのない大きな問題が存在していることに君は気が付く。

 

そして君はまた僕に相談してきてくれる。僕はやはりそれを嬉しく感じてしまうだろう。泣き続ける夜もまたあるかもしれない。僕はやっぱりいつかと同じようにその涙は拭ってやれなくて、気休め程度の励ましと空振りする好意をぶつける。それが何とももどかしくて、悲しい悲しい虚しいと言うあなたを、どうして自分は幸せにしてやれないんだろうと自分をふがいなく思うだろう。

 

またそこで僕とあなたは間違えようとするかもしれない。そして寸でのところでまたあなたが正気を取り戻して、僕はやっぱりなと思う。それでいいんだと安心する自分もいるだろう。そこにまた惚れる。

 

そういう状態が何週間が続いたあとで、君と君の恋人は別れる。君はまたフラれてしまうのかもしれないし、あるいはそれまでの人生で得た勇気を振り絞って自分から振ることができるかもしれない。そこまでは分からない。けど、どんな別れ方にせよ、またあなたはそれを前の比ではないにせよ辛く思って、想い出に苦しまされ、自分の不出来を責め立てるだろう。

 

そこでまた僕を頼ってくれるだろうか、そうしてくれたら僕は嬉しい。自分に見合う相手がいないと、あるいは相手に見合う自分になれないと、そんな自分は嫌いだとあなたは言う。失恋とは、その人を弱らせてしまうから。そこで僕はまた君が立ち直るサポートをする。健気なものだろう?僕はずっと好きだよ、とそれがどれだけの効力を持つか分からないけど、僕にできることは言葉で君を勇気づけることだけだから、それを必死にしようとする。また同時に良い機会が来たと君を口説こうとするだろう。

 

しかし君はおそらく結局僕になびきはしないんじゃないかと思う。多少揺れてくれることはあっても、こちら側には倒れてはくれないんじゃないかな。

 

けれど、もうこの頃になると僕もそういう関係でいることに慣れてきて、好意を受け取ってもらえなかったとしても、むしろその関係を心地よく捉え始めるだろう。それはきっと君の方もそうだろう。

 

もちろん僕が君に好意を持っていて、それを成就させたい思いは常にあるし、それをぶつけることも止めないから、表面上の関係はずっと変わらないだろうけど。

 

そうして過ごしていると、多分そろそろ就職を考えて、そのために色々準備しなきゃいけない時期になる。恋愛だのどうのという時期ではなくなる。ああ、言っていなかったけど僕の予想ではきっと僕と君は結局、違うゼミに入るだろうと思っている。けどそのおかげで僕らは時間を共有し過ぎない関係でいられて、その日あったことをたまに夜電話で話す関係も継続させられていることだろう。

 

君はその頃にはもう実家暮らしに戻っていて、親のことを考えたりして、強い活力を得られるだろう。やりたい仕事も強い意志によって決められるだろう。そこまで決まって環境が整備されたらもう、君は無敵だ。努力の甲斐あって、やりたい仕事の内定を簡単にとってくるはずだ。あるいはもしかしたら本当に難しい、倍率の高いところを志望して、多少苦しい思いをするかもしれない。そのときは僕も少し助けてやって、まあその助けが本当の支えになってたら嬉しいんだけど、そしてやっぱり苦しみもがいた後に、その最後には君は就きたい仕事にちゃんと就けるだろう。

 

僕のほうはどうだろう、きっとまたのらりくらりとやっているだろう。仕事には就くだろうが、そこまでやりがいもない日々を過ごすだろう。

 

そうして二人は社会人になる。君は元の街を離れるだろうし、僕も多分そうするけれど、君を追って同じ街に住むなんてことまではしないはずだから、離れた距離のまま二人はいるだろう。

 

社会人になって、最初の3ヶ月くらいはお互いに社会という理不尽な波に揉まれて、苦しい思いをたくさんするだろう。君は果たしてその時まで愚痴をこぼし相談する相手として僕を選んでくれるだろうか、そうだったらいいんだけど。君に相談されて、君の問題について考えているとき、それが役立つものだと思えたときに、僕は自分を価値あるものだと少しだけ思えるから。

 

そうやって二人は仲良く続いていく。たまにご飯を食べに行ったり、お互い相手がいなくて、そういう気のある相手さえいない、けれども時間が空いている、そんなときには旅行に行ったりもするかもしれない。

 

僕はそういう関係を本当に幸せだと考える。この人がいてよかったと幾度となく、繰り返し思う。

 

横顔を盗み見ているのがバレて、「何?」と不思議そうに首をかしげられたり、眠そうにこくこくと船を漕ぐあなたの頬を突っついて、化粧が落ちると不機嫌そうにされたり、距離を詰めようとし過ぎて煙たがられて、距離を離しすぎて少し拗ねられたり、少しギクシャクしたり、やっぱり笑い合ったり、怒られたり、許したり、責めたり、優しくしたり、笑わせたり、笑われたりするんだ。

 

そういう未来の果てに、君は生涯を添い遂げる相手を見つける。それは僕じゃないだろうけれど、きっと僕以上に君を大切にしてやれる、本当に出来た人間で、君とこれ以上ないほどに相性の良い人間で、だから僕は不思議とそんなに悔しく思わないんだ。君が幸せになれるという証明書をようやく見つけられたような気がして、少し心が休まるんだ、安心できるんだ。ほらな、幸せになれたじゃないか、と。君は大丈夫だったし、これからも大丈夫なんだよ、と。

 

君はその時に、僕のことを伴侶に紹介してくれるだろうか。大切な友人なのだ、と胸を張って紹介してくれるだろうか。そうしてくれたら、いいと思う。僕も紹介されるだけに見合う人間でいようとしているだろうから。

 

これは全部、たらればの話。あり得たかもしれない、あり得るはずもなかった未来の話。現実ってやつはいつも理不尽で予測不能だから、どうなるかなんて分からないけどさ、けど、僕はこういう未来が待っていたんじゃないか、って、こういう未来が待っていたら、それでいいなと思っている。

 

けれども本当に伝えたいことは、そんなことじゃなくて、君が大丈夫だってことなんだ。

 

心ない馬鹿に傷付けられることもあるだろう、落ち込むこともあるだろう、立ち直れないかもって

それでも、大丈夫さ。上手く言えないけど、そう思ってほしいんだ。

 

『あなたが自分を愛せないと言うんなら、それでも僕を好きだと言ってくれるのなら、僕の愛したあなたを好きになってほしい

 

大丈夫、僕の愛は永遠に閉じ込めたから、永遠に、未来永劫好きだから

馬鹿げたことをしてるんだよな、それはわかってる、分かってるんだけど、そういうことにしておいてくれないか

 

自分の重すぎる愛に辟易とするあなただけど、ほら、ここにもっと重たい愛を持つやつがいるだろう?

これよりはマシさ、君の愛なんてまだまだ軽い だから気に病むことはない、安心してほしい』

 

君のためには生きられないから、君のために言葉を綴ります。こんなやつのこと、すぐ忘れてほしいけれど、こんなやつでも与えられたものがあると言うんなら、それは覚えてほしいとか言わないけど、それだけ、君にとって糧になるものだけを、どこか体の奥底かどこかで持っていてほしい、君は大丈夫だからさ。

とりとめない文章群

水槽のように列車の中には水が満たされています。車窓は額縁です。車内の顔は固定されています。我々は真顔でいなければなりません。笑顔は許されず、ただただ絶望に満たされた表情で運ばれていなければなりません。人々は、落ち込んでいる人には疑問を抱きません。何故か、喜ぶ人ばかりを訝るのです。

 

やはり日本文学(文学に限らずコンテンツ全体)の味は病的な執着だ、もしくはそれが生み出す繊細さ

 

後悔は信念に対しては無力で、だからこそ、そこに信念のニーズがあるんだけど、信念はつまりヒトの後悔したくないという弱い感情を覆っているだけでしかないのかもしれない

 

全てがケースバイケースでしかないのに、馬鹿は定理や真理でもあるかのように根拠の無い格言を唱えるんだ、同じ根拠がない念仏ならばまだ信念や誠意のほうが幾分かマシなのに

 

『恋愛の2パターン

相手とのコミュニケーションの中で自分の中に小さな相手を仮想的に作り上げ、そいつを可愛がる、1つ目の手法

相手とのコミュニケーションでそれぞれ互いの内に相手そのものではない、何かを積み上げていき、その積み上げられたピラミッドが、ある種の自分自身のそれとは違う確かな存在証明として輝く
その相互付与的な関係の一番頂点で肉体の二人が踊っていて、精神のほうがその積み上げられたものを享受する、2つ目の手法

自分のことは多弁になってしまうな』

 

『頭痛と心のしこり

頭痛と心のしこりは似ていて、それが漠然とどこかに存在しているのが分かるとああいやだなあと思ったり、強くそれに支配されると暴風雨に曝されているように感じたりします。両者を比較するとどうしても心の方が辛く感じられますが、それはおそらく、心と対比して辛さを感じる頭の方が健全であるからでしょう。頭が痛みに支配されているとき、心は頭に干渉する手段を持ちませんが、心が痛みに支配されるときは、私達はどうしてもそれを頭を通してしか観測できないので、頭のほうで、心に対して苛立ちだったり哀れみといった余計な感情を抱いてしまうのです。両者は切っても離れぬ関係ですが、平時はまるで互いを存ぜぬように振る舞うのが何ともいじらしいですね。』

 

『dear the words on the earl grey (アールグレイの水面に浮かぶ言葉たちへ)生活感なんて言葉遠い対岸のようせっかくもらった言葉も水面を貫通し沈んでゆくマドラーでかき混ぜ、浮かび上がらせることはできても浸ってゆく 浸ってゆく 言葉たちへ』

 

『【歌詞】起き上がりこぼしの熱狂

奇妙な熱がまだ残ってる
心地良いような
じりじりと乾かせてゆくような
何かが焦げている 干からびたウイスキーボトル 崩れた

満月の昂ぶる夜に
冷静は何処に潜む
溶けない氷をポケットへ 
申し訳程度に
マドラーでかき混ぜ ジャキジャキと


溢れる飛沫 水溜まり 反射する街頭の光

熱狂、ああ熱狂よ
お前は只の幻想だ
お前の見せる陽炎
それが夢を形作って
全身を支配する 駆り立てる
錯覚かな 世界を打ち鳴らすことができるなんてさ


うだる熱がうずいている
渦巻くように
薪もなく焚かれた火があって
見過ごせなくなった 誰かが滔々と くべる くべる くべる

飛び散る火の粉 灰となり 去りゆく後は 風に聞く噂


熱狂、そして情熱よ
お前が咲かせる花
その真っ赤な花が
すべて狂わせている
踵に咲くのは花 情熱の花
明日がどっちかもわからないのに

遠くの遠くの先まで 見通せるか?
起き上がりこぼしの熱狂だけが立つ
進んでみたら崖っぷちだったって
腐るほどそんな話ばっかさ
あぁ、熱狂よ
陽炎、情熱
あぁ、熱狂よ
陽炎、情熱よ』

 

『シャボン玉の質量

 僕らはシャボン玉や風船が膨らんで割れることに必要以上に意味を付属させます。例えば膨らんだ思いが前触れなく割れてしまうというようなことに。しかし実際に問題なのは、割れたあと、そのシャボン玉に含まれていた中身が外界の、例えば空気と同化してしまうことであるはずです。シャボン玉や風船などはただの器でしかないのです。そこに入った思いが強固であれば、また色濃くあればあるほど、きっと外界と混ざり合っても行方不明にはならないはずでしょう。まあ本当のことを言ってしまえば、空気という大海は無限大なので、その思いもいつかは完全に呑まれてしまうのかもしれませんが。しかし、僕は、強固な思いのその強固さを、浪漫を、諦められないのです。そう願っているのです。シャボン玉が割れないことに越したことはないですが、しかしやはり割れたところで気しないというような、そんな思いの在り方ができたらいいなと、僕はやはり思いを膨らませ続けるのです。届けよ、届けよと。

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全てが終わったら、そのあとに。

 

人の好意の持ち方について完全版

本質的に自分を嫌う、もしくは好意を持たないであろう人間に対し、好意を持ち、その好意でもって友好関係を築くやり方がある。つまり、「こいつは自分のことを本質的には好きではないだろうけれど、自分がこいつに好意を与えることによって、仲良くなれるだろう」というやり方である。これは不健全である。幸福になれない好意の持ち方である。

 

健全な好意とは、自分に健全な好意を抱いてくれる人間に対して抱く好意である。

 

自分に好意を抱いてくれる人に駄目なところを見せて、受け入れてもらうのが、健全な関係だ。幸せな関係だ。

 

自分に好意を持たないであろう人間に、駄目なところを見せて、それを拒まれ、それでも、と、今のは無し、と好意で上書きするのは不健全な関係だ。幸せになれない関係だ。

 

恋人関係でこれをする者もいるが、友人関係でもこれをする者もいるので、よく注意するように。

独白B それと走り去った情熱へ

独白B

知ってるよ、本当は知ってるんだ、どうしたら生きられるかって。でもね、それを求めるにはもう、大人になりすぎた、タイムアップなんだよ。それを最初から持っている奴には分からないんだ。存在してるだけで愛してくれる存在、どんな在り方でもいてくれるだけで幸せだと言ってくれる存在。そんなことを言ってくれる存在が得られるように努力してきたのは多分間違いだったんだろうな。きっと僕がすべきことはちゃんと自分で愛せる自分でいるべきだった。努力して人に好かれて条件付きの自分を受け入れてもらうよりもきっと大好きな自分でいて、そして自分を愛してやるべきだった。そこを間違えたんだろうな、人に好かれればそれでいいと思ってた、違ったんだな、僕は自分の全てを受け入れてくれる存在を探してただけなんだ、そのために自分を魅力的に見せようとああだこうだとしてきたけれど、そんなことをして誰かに愛してもらっても、それは自分の欠片を愛してもらっているだけで、ああだから振ってしまったんだろうな、あの時も。わかってるんだよ、こんな願いを受け入れてくれる人なんていないって、もう20何年も生きてくれば分かるんだよ、世界はそんなに俺に優しくないって。こんなときでも少しも待ってくれない。泣いてる自分を差し置いて全ては悪化する。早く行動しろよって背中を蹴り上げてくる。恨んでることがあるとすれば、それは世界があることだ。自分の存在が世界の上にしか成り立たないことだ。世界がなければ俺は自分の存在だけでもどうにかやっていけたかもしれない、いや、それも醜い負け惜しみだな。そうだよ俺は負けたんだから。そんなに俺に勝ちたかったのか、お前。そんなになるまで俺を負かして、何か得られるものがあったのか。何が得られたのかくらいは教えてくれよ、なあ、まさか何も得られなかったなんて言わないだろうな。


走り去った情熱達へ

走り去った情熱よ、消え去った理想よ、ありがとう

お前らのおかげで俺の人生はクズでちっぽけなものじゃなくなったよ。つまんなくて悲しくて無価値だけどさ、それでも線香花火くらいは輝いてたんじゃないかなって思うんだ

さよなら、元気でやれよ、今度はどこかの誰かの元で、ちゃんと成就させてもらえよ、俺にはそれができなかったけど、俺の中で燻ってた経験もきっとお前らの糧にはなるさ。ごめんな、ありがとうな

 

独白A (8月上旬某日の気狂い)

 

ああ、もうだめだ、俺はもうだめになってしまっている、かつて存在していたどんな俺よりだめになっている、だめなんだ、どうしても、強くない、人ほど強くもなく、強いとむりやり信じ込みその素振りを見せ、弱さなど閉じ込めてきたから、頼るところもない、それを見つけるのが人生なのか、いや、そうじゃないはずなのに、他のところにはそんなもの、当たり前にあったりするのに。いや見つからない、きっともうずっと見つからないのかもしれない、もう、いいのかもしれない、そんな、そんなものなら、もう、もういいんだよ、いいんだ、疲れた、疲れたよ、もう、終わりなんだ、こんなもんなんだ、どこにもない、所詮自分などどこにもない、あったように見えたり、作れるように見えたりしたけれど、そんなものはなかった、亡霊か、いや上手いことを言う必要はない、もう、もうそんな必要もない、なにもいらないのだから、もう、いいのだから、果てなんだ、いやしかし、もう厄介だな、この言葉というやつも、自分というやつも、世界というやつも、健気にみんな生きているが、どうも。それについていけない、もう、いいのに、そんなことばかり考えている、もう、なんだ、ああ、いやだ、いやなんだ、それだけは言えないし、言えたら?いや言えたところで、何も変わらない、変わる未来などない、それで変わる未来ならもうとっくに掴めているだろう、だからそれは言っちゃだめなんだ、だれもいないから、本当に、本当はだれもいない、自分さえいない、ただこのこれがあるだけ、悲しみ?いやそんな言葉はもういらないだろう、いい加減に分かれよ、こんな、こんなふうだから、いや、こんな殴り方をして何になる、何にもならない、もう、もうさ、そうだよ浪費だ、ああまた言葉か。もういいのに、どうにかしてくれ、もしくはほうっておいてくれ。もういいんだよこっちは

三秋縋の『三日間の幸福』を読んだ。

2019年8月24日 記

 

自分でも信じられない話なのだが、自殺しようとしているまさにその時期にこんな物語を読んでしまうのだから、自分でもその嗅覚を褒め称えたくなる。

 

こんなにも文章の節々が重たい小説に出会ったのははじめてだと思う。僕は二十数年生きてきて、未だ人々が言う「この作品はまさに自分のことを書いているのではないか」と思うほど革命を受けるような小説や音楽に出会った経験がなかった。しかしようやく出会えた、それがこれなんだと思う。

 

『三日間の幸福』を知っている人からすれば、この作品がこれから死のうとする人間にどれだけ刺さるのかということは言わずとも分かることだろう。

 

『三日間の幸福』全てを読み終えたときのタイトルのこの重みがどれほどのものであるか。僕はと言えば自殺しようと思い自らの首に包丁を向けつつもそこを裂くことができなかったあの日から、丁度今日で3日目である。毎日毎日ホテルで目を覚ます度に延長戦だと呟き、生きているのかも死んでいるのかも分からない宙ぶらりんになったようなゾンビのような思いでまた夜には自らに刃を向ける日々である。何とも滑稽な話だ。

 

そんな冗長な話はどうでもよい。僕は今から本当に自分の思いを正確に書き写すことをしてみたいと思う。

 

『三日間の幸福』を読んで、自分の思いを代弁してくれる作品というものに初めて出会った。本当に初めての経験だった。なんとなく自分の感じるような現実に対するモヤモヤを似たような形で、描写してくれる作品はあった。ただ、それは完全ではなかった。僕のわだかまりが円であるとしたら、今まで出会った作品は、フリーハンドで書いた円のようなシンクロ具合しかなかった。『三日間の幸福』は僕の円と正確に合わさる円をコンパスで書く以上に正確なそれを描いてくれた。だから僕は死ななくてもいいのかもしれないと少しだけ思った。でも、生きていなくてもいいとも思った。なんとなく、この先の人生、もし仮に生きたとしても文章や音楽を創作しようと思うことがないかもしれないとふと思った。なんだか、これまでの人生全てが一度清算されたような、強く腑に落ちるような感情があったのだ。確かに社会には現実には苦痛を与えてくる、どうしても納得できないこともある。ただ、それに対するドス黒い感情がなくなってしまったように感じている。どうでもよくなっているのだ。人生の成功も、恋愛も、友情関係も、家族も、お金も、生も死も、全てがかつての執着を失い、どうでもよくなってしまった。

これらは全て嘘かもしれない。一時的なものかもしれない。旅の疲れ、死を思うことの疲れからの逃避かもしれない。ただ、こんな感覚はおそらく今まで一度さえ経験したことのないものだと思う。だから、そう、僕は戸惑っている。本当に死んでも生きてもどちらでもいいと思っているのだ。やはり今夜も包丁を自分に向けるのかもしれない。それは今度こそ成功するかもしれないし、僕のこの清算された思いとは別のところから生物の根源的な恐怖が湧いてきて、それはまた失敗するかもしれない。まだ金は尽きていないから、また別のホテルを周り、そんなことを繰り返すのかもしれない。あるいは別の死に方を模索するのかもしれない。あるいはやはり死ねないと思って、家に帰るのかもしれない。今回の一件で迷惑をかけた全ての人物のところを渡り歩き、それでも許してもらえたらかつてと同じ生活をするかもしれないし、全て辞めて違う生活スタイルを1からやり直すかもしれない。死ぬかもしれない、生きるかもしれない。

どれでもいいと、思う。本当に心の底からそう思う。もしかしたらこの感覚は、頭が働いていないせいかもしれない。もしまた活力が沸いてきたら、かつてのような様々な感情が巡ってくるのかもしれない。それはすこしだけ嫌だが、それもまた愉快なことなのかもしれない。

 

とりあえず僕はもう少しだけ旅を続けたいと思う。幸か不幸か、残された金銭はもうあまり多くはない。だからこの状況は長くは続かないだろう。まだどうなるかは分からないから、交友関係にある全ての人に連絡を取ることはしない。誰にも連絡をとらないし、この投稿も予約投稿に留めておくだけでリアルタイムでの公開はしない。それだけは不義理だと思うから、申し訳ない。けれども、少しだけ、あと少しだけこのままでいさせてくれないか。心配させているのは分かっている。ただとにかくすこしだけ、一人にさせてほしい。

 

最後に、この文章が全く微塵も『三日間の幸福』のレビューになっていないことに気が付いた。ただ、僕の二十数年の人生を完全にひっくり返す物語であったことだけは最後に伝えておきたい。

どうして人は表現に魅力されるのか。表現とは何か

2019年8月24日 記

 

なんとなくその答えが分かったような気がした。

 

それは当たり前のことだった。例えばひとりの表現者がいて、彼が絵空事や夢見話を歌う。それは現実的なことではない。けれども彼はそれを信じている、願っている。そのひたむきさに、人は魅力されるのだ。彼に共感する人々は、それを信じていいんだと、願うことが許されたように感じるのだ。例えば世界の些細な美しさを歌う者。例えば世界の厳しさを歌う者。こんな世の中、生きているなんてくだらないと歌う物語があっても、それでも彼が生きていることがメッセージになる。それでも彼は生きているんだと、ちっぽけな世界でも、絶望しながらでも生きる価値があるのだと、そう言う彼に人々は魅力される。あるいはこんな世の中だから死んでしまおうと言う人がいて、それでも人々は彼の歌う「死の美しさ」にさえ魅力される。実際に自殺した表現者がいれば、人々はより、死というものに、死んだ彼に魅了されるだろう。

 

それが表現するということなのだ。人々を動かすということ、人々の心を動かすということ、人々を救済するということ、なのだ。

 

そして人を魅了することによって、表現者である彼も己を肯定することができるのだ。自分の信じる世界に付いてきてくれる人間がいるのだと安心する。それがまた、彼の信じる世界の、彼の生み出す世界の活力になる。あるいは人を魅了できなくとも、彼はおそらく、人々に理解されない高尚なことを歌う自分に価値を見出し、自分を肯定することができるのだろう。表現するとは、そういうことなのだ。自分の写し鏡を、「人」とは違う形で生み出すこと。それが表現なのだ。だからそれは半端であってはいけない。自分に嘘をついてはいけない。自分の信じる世界を、自分に見える世界を、つまり自分自身を、言葉として、何かとして形にする。信じること、願うこと。自分という物体から、違う媒体として自分を生み出す。願いを、信念を、世界を形にすること。それが表現なのだ。

 

だから表現することは、きっと端的に言えば、コミュニケーション手段でしかない。健全な人間は、人との交流の中で、自らの言葉で自分を表して、表明して、人と繋がる。彼の言葉が誰かに肯定されて、交流して、そして彼は安心する、満足する。彼は生きていて、自分の言葉で誰かと話をして、それが受け入れられて、例えばかけがえのない友人ができたり、心を許せる恋人ができたり、ありのままを愛してくれる家族ができたりする。そうして彼の世界は肯定される。それは、表現者がまわりくどくやっていることを、最短距離でやっているだけなのだ。つまり、そのやり方で、最短距離のやり方で自分の世界が肯定されなかった人々がすることが表現なのだ。学生時代に友人ができなかった、恋人に深く傷付けられた、あるいは傷つけてしまった、家族に受け入れられなかった、誰かに裏切られた、そういった経験が彼等を表現へと誘うのだ。

 

あるいは、ありのままの自分が受け入れられず、仮面で生きることを決意してしまった者。本心の自分の世界が受け入れられず、仮面の世界だけが人々に受け入れられてしまった者。彼らは内側でくすぶり続ける。世界の内側で、仮面の世界だけが受け入れられている様子をただ淡々と眺めていたりする。そういった人々も表現へと誘われるのだろう。

 

だから表現もコミュニケーションも同じ、本当の自分を、自分の世界を誰かに受け入れてほしいという欲求の現れなのだろう。

 

自分の世界にはけれども、誰も入ってくることはできない。それは自分の世界であり、また、誰かの世界ではない。両者が似ていたとしても、そのふたつは交わることがないし、決定的に違う、似たふたつのものであるという事実から逃げることはできない。同じデザイン、同じ質量、同じ材質のコップが2つあっても、両者は交わることができない。

 

そして人々はそれが分かっている。だからだれも自分と似た人々を求めることはあっても、自分と同じ存在を、自分自身を世界の外に求めることは決してない。

 

では何故、それでも自分の世界を、誰かに認めてほしがるのだろう。

 

それはきっと、人々がそれを観測することができる存在だからだ。誰かが自分の世界を見て、何かしらの行動を示してくる。そのプロセスを通じて、人は自分の世界が自分にしか見えないものではなく、きちんと存在しているものだということが、実感をもって分かるのだ。

 

それが何を意味するのか、どうして人は、自分の世界を自分で観測するのみで我慢できず、人に観測してほしがるのだろう。どうして人は自分で観測するのみで、自分の世界の存在に満足することができないのだろう。

 

それは分からない。あるいは、人は自分で自分の世界を観測することはできないのかもしれない。

 

例えば、人は自分自身を描いた小説や歌を作ったとする。そこにはきっと彼の世界がある、人に観測してもらわなくとも、彼の世界は存在する。それはでも、言葉という媒介を通して、自分の世界を生み出したからだ。言葉という媒介そのものが、人に観測される性質を内包している。だからなのかもしれない。

 

誰かに聞かれることのない独り言も、誰にも見られない詩も、人に観測される性質を孕んだ媒介によって、形になる、それ以外によって形になることはない。それは音でも、映像でも同じことだ。今のところ、人に観測される性質を孕まない媒介によって、人が自らの世界を形にすることはできない。

 

では何故そこまでして人々は自分の世界を形にしたがるのか。それは自分の世界が、自分の存在が形あるものだと、きちんと存在しているのだということを自分で信じたいからだ。その行為なくして、人は自分が存在しているということを認められないからだ。人は何もなくては、自分が存在していることが分からないのだ。

 

そして存在は、存在しているという事実を観測してもらいたがる。それは存在に普遍的な性質だ。存在という性質をもった存在が、存在を認めてもらうことを前提としていることは当然だ。そして存在は観測される性質を前提としているから、観測なくしては存在できないのだ。

 

だから人は観察なくしては存在できない。だから人は観察してもらいだかる。だから人は己の世界を表明する。だから人は表現する、交流するのだろう。

小説 居酒屋

胸ポケットにのど飴を入れたまま、煙草を吸っていた。彼女はそんな時にだけ無駄に、僕の胸のステッィク状の膨らみに気付いて、人差し指で指しつつ、雌猫が玩具にじゃれるような目つきで何、これ?と囁いた。そのまま躊躇いなくそこに手を入れ、釣り上げると、机の上にビタン、と黄色いパッケージのレモン味ののど飴が姿を現した。グラス、ジョッキ、串焼き、鴨肉のポン酢締め、チャンジャ、のど飴。それらは全く似つかわしくない。対面に座る三年振りの友人は、もう社会人になるのに、そんなちぐはぐな人間はお前だけだ、というようなことを言って爆笑する。僕はとにかく、頭の中で酔いとニコチンがぶつかり合う感覚が心地よくて、それに浸っていた。夢中だった。斜向かいからは、やっぱりお前にタバコはまるで似合わない、と声が飛んできたが、愛想笑いで誤魔化した。苛立ちはなかった。いつからか、苛立ちを隠そうとするうちに、気が立つということ自体が日常から消えたように思う。きっと僕は、いや僕だけは、進歩という螺旋階段を、逆走している。気づけば、信念はないし、その見つけ方すら分からなくなった。教えてもらったところで、どうにもなりはしない。心は小さく、衰弱するばかりで、動物みたいに、反応することだけが上達してゆく。意思を伴わず、この言葉にはこの態度、声色、と。すべてがすり減ってゆく感覚は確かにあって、どこかで僕も危惧している。しかし、だからといって、どうにもならない。逆説、譲歩。そんなものが心から発せられたことなど一度すらない。ああ、早く。早く何もなくなってしまいたい。いっそ。揺蕩う煙と氷がぶつかる音。それが僕に帰属意識を呼び起こさせてやまないのだ。
「なーに、ぼぉっとしてんの」彼女が頬を突く。愛おしい。思うに、真の愛おしさとは恋愛の上には表れてこない。だから、僕は彼女を愛おしいと思えることに感謝をする。
「いや、次はいつになるかな、と思って」
また誤魔化した。しかし、別れは惜しい。だがそれも、とどのつまり緩急の問題だ。僕はすぐさまジェットコースターという概念を思い浮かべて、そこに人生という言葉を重ねてみて、何かが晴れたように思った。満足し、少しばかりの安心を得た。